おんなのはきだめ

ダメなおんな、ダメなりにも生きるんだよ。

赤いカーディガン

初めてできた年上の友達は、14歳年上の女の人だった。

 

小学生から中学生にかけて住んでいたマンションは、坂のてっぺんに立っていた。その隣には大きな緑化公園があった。池や広い芝生が広がっており、週末になると多くの家族やランニングをする人、釣りを楽しむ人が集まった。

 

その公園からはマンションの裏側から行けることができた。マンションの横には小さな林があり、そこを抜けていくと公園の脇にでるのだった。マンションに住んでいる子どもたちの間ではそこの抜け道はみんな知っている道で、みんなで遊ぶとなるとこぞってその抜け道の前に集合し、公園に駆け抜けて行くのだった。

 

小さい頃から1人が好きな子どもだった。小学生の時は近所の子どもたちと毎日のように遊んでいたが、中学は地元の中学ではなく家からかなり離れた中高一貫の私立に入学したため、近所の子どもと遊ぶことはだんだん少なくなっていた。ましてや、公園で遊ぶことなどはなくなった。

 

だが、それが心地よかった。カバンを家に置くと1人抜け道を抜け、だだっ広い芝生の公園の端にあるベンチにぼうっと座り、週末の人の賑わいとはまったく打って変わって、犬の散歩をする近所の人や、ただあてもなくぶらぶらと歩く老人を眺めながら、家の冷凍庫からくすねたアイスクリームを食べたり、本を読んだりしていた。

 

その日は珍しく先客がいた。

 

小さな男の子が地面に座り込み、なにかを一生懸命に観察していた。そしてその様子を興味がなさそうにぼんやりと眺めながら、ベンチに座りタバコを気だるそうに吸っている女性がいた。

 

ずいぶん近づいているのに、2人は私に全く気づいている様子などなかった。今日は退散するかと体の向きを変えようとした時、女性がこちらを見た。

 

「あら」

 

ふわふわとパーマのかかった肩ぐらいの茶色の髪。前髪はぱつりと眉下で切りそろえられており、細いタバコをふうと吐き出すその唇と、腕を通さずに肩に無造作にかけられたカーディガンは、きれいな真っ赤だった。

 

思わずたじろぐ私をじいと見るとその女の人は、細い体を少しずらしベンチの端に寄って言った。

「座る?ここ。」

 

できるなら立ち去りたい。でも、ここで踵を返して立ち去ったら、この人はきっと寂しい気持ちになるだろう。2秒ほど考えて、私はベンチへと向かった。

 

「失礼します。」自分でも驚くほど上ずった声が出て、思わず顔がかあっと熱くなったのがわかり、恥ずかしさを隠すように持っていた文庫本を開いた。

 

「読書?偉いね。」女性がしげしげと自分を見ている視線を思い切り感じる。えいと心を決め、ぱたんと本を閉じると、きっと彼女の方を向いた。

 

「あの、ここ、禁煙だと思いますけど。」

 

一瞬キョトンとした顔をした彼女は、ああ、と声を上げて前に屈み込むと黒のピンヒールのつま先できゅきゅっとタバコを地面に擦り付け火を消した。その動作が妙に色っぽく、私は目が離せなかった。

 

ほら見て、消したわよというように彼女はもう一度こちらを見ると、にこっと笑った。 

「外で吸うタバコって、格別に美味しいの。」

 

 

その日から、そのベンチに行くと彼女がいることが多くなった。初めはぎこちなく会釈をする日が続いたが徐々に私たちはおしゃべりをするようになった。

 

彼女の名前はチサコ。

チサさんは27歳。小さな子どもはケンタロウくん。公園の反対側のマンションに2人で住んでいること。ケンちゃんが最近虫が好きで、この公園を気に入っていること。チサさんは虫が苦手で、一緒に遊ぶことはできないので、こうして見守っていること。彼女は昼と夜に別の仕事をしていること。スーパーに行ってケンちゃんを保育園まで迎えに行って、この公園で遊んでいるのを見て、家に帰ってご飯を食べ、寝かしつけてからまた仕事に出かけること。彼女は思ったよりおしゃべりで、そんなことをたくさん聞かせてくれた。確かにいつも彼女の横にはスーパーの袋が添えられていて、時には今日の夕飯はねえ、と聞かせてくれたりもした。

 

 

それは未知の世界だった。我が家は4人家族で、中学生の私と高校生の姉を食べさせるために、母は週末に車を出しスーパーに買い物に行き、その度に両手いっぱいの食材を買ってきては重い重いと冷蔵庫に入れていた。小さなビニール袋ひとつに収まる、小さな家庭の食卓。チサさんはすごく華奢で小さな体をしていて、おそらく食も細いのだろう。ちょこんと彼女の横に収まるそのスーパーの袋が、すごく可愛らしく感じた。

 

そう、私はいつのまにかチサさんとケンちゃんに惹かれていたのだった。

 

いつしか私は、公園に本を持っていかなくなった。公園に行く頻度も増え、冷凍庫からくすねるアイスの数は3つになっていた。

虫が嫌いなチサさんの代わりに、私がケンちゃんと遊んだ。ケンちゃんは優しい子で、虫を決して殺したりしなかった。私が小さい頃は、同い年の男の子はアリを踏み潰したり、巣に水を入れて右往左往するアリたちの列を見て喜んだりしたのに。じいっとアリの列を観察したり、時々現れる大きなアリに驚いたりしていた。

 

そんなある日、何気なくチサさんが聞いた。「そういえば、家はどこなの?」私はすぐ裏のマンションだと言うと、チサさんの顔がぱあと明るくなった。

 

「あの、大理石の廊下のところ!」

 

高級マンションでもなんでもない我が家のマンションは、この地域では一番新しい建物で、外見だけは少し小洒落ていた。黒を基調にした建物で、エントランスを入ると廊下が黒の大理石基調になっていた。夏の暑い日にはそこは少し涼しく、子ども達は大理石に頬を当てて涼んでいたりした。石はひんやりと冷たく、体温の高い子ども達の火照った体をすぐに鎮めてくれた。

 

「なんで知ってるの?」思わず驚く私に、チサさんはいたずらっ子そうに答えた。

ケンタロウの保育園のお友達の子が住んでて、遊びに行ったことがあるの。帰りにケンタロウがそこで転んでね、泣くかと思ったら、床が冷たくて気持ちいいって立ち上がらなくて。しょうがないから私も一緒に寝転んだのよ。

 

え、チサさんも!?すると、秘密を打ち明けるように彼女は続けた。もう、人が来たらどうしようかって、ひやひやもんよ。頭おかしい親子がいるってびっくりされちゃうでしょ。でも幸い誰もこなくて。しばらくケンタロウと一緒に横になったらケンタロウも大人しくなってくれて。でも、なんかよかったなあ。次に引っ越すなら、大理石の廊下があるところがいい!って思うわけ。その保育園のお友達もね、もう引っ越しちゃって。ケンタロウが唯一仲よかった子なのに、残念。

 

 

私はチサさんが周りの様子を伺いながらも、どれどれと横になる様子を想像して、涙が出るまで笑い転げた。なんて可愛い人なのだろうか!はしたないからやめなさいと叱り、ケンちゃんを無理矢理にでも起こさないところが、チサさんらしかった。

 

 

今思えば、チサさんは大変な毎日を送っていたのだと思う。中学1年生だった私には、彼女の苦労は1ミリも理解できていなかった。

 

 

ケンちゃんの父親が一緒に住んでいないことの意味も、当時の私はわからなかった。27歳。幼稚園の子を抱え、昼職と夜職を掛け持つシングルマザー。それでも私と会う時の彼女はいつも優しく、明るく、かわいく、そしていつも女らしかった。大人の女性といえば、母親か学校の先生しかしらない私にとって、チサさんははじめて知り合った「オンナ」だった。チサさんはいつもかわいらしいワンピースに、ヒールを履いていた。そして、彼女が時々着ている赤いカーディガンは、チサさんの肌の白さと、茶色の髪と、赤い口紅にすごく映えて似合っていた。

 

 

私は、チサさんに憧れの感情を抱いていたのだった。

 

 

中学2年生になると、私はそれまで入っていなかった運動部に入部した。遠くの学校に通っていたこともあり、帰りが遅くなることが増えた。もちろん夕方に公園にいくことはあまりできなくなっていた。あんまりもう来れなくなるかも。そうチサさんに告げるとチサさんはいつもの優しい笑顔で言った。そんなこと、気にしなくてもいいよ。だいたいいつもいるから。たまに部活サボったら、一緒に遊ぼ。

 

 

それから1年が過ぎた頃だった。中学3年になった私は、もう公園に行くことはなくなっていた。

 

 

ある日、部活が休みの日があり久しぶりに家に早く帰ると、いつもは夜に帰ってくる父親が家にいた。母親は呆然とした顔でダイニングの椅子に座っていた。ただならぬ気配を感じ、思わず2人に駆け寄る。なにがあったの。

 

ああ、もう心配ないよ。父親は私の肩にぽんと手を置くと話し始めた。

空き巣がね、入りそうになったんだ。

 

 

話はこうだった。

 

昼過ぎ、母親がうとうととしていると、うっすらとインターホンが数回鳴るのが聞こえた。マンションのエントランスにつながっているモニターを覗き込むが、そこには何も写っていなかった。玄関でインターホンを鳴らしているとなると、お隣さんだったのかしらと玄関に向かって行くと、突然それは起こった。

 

 

ガチャガチャと、扉が外から開けられようとしている音がした。思わず扉に駆け寄り、母親は必死に鍵をおさえた。幸いにも最近もう一つ鍵を設置し、それは最新の防犯の鍵で絶対に開けられないというお墨付きのものであったが、もとから付いていた鍵はいまにも開けられてしまいそうだった。

 

渾身の力を振り絞り、母親は鍵をおさえていたという。しかし、鍵がまったく動く気配がないので、すぐに諦めていなくなったという。母親は玄関で思わずへたり込み、恐怖でしばらく動けなかったそうだ。それからすぐに警察に電話をし、父親に電話をし、しばらくは事情徴収やらなんやらで大変だったそうだ。

 

静かに父親が私に説明をするのを母親は聞いていたが、話が終わるとポツリと彼女は言った。

「見たの。ドアスコープから。相手を。」

 

すうと息を吸い込むと、彼女はゆっくりと言った。

 「女の子だったのよ。茶髪で、赤いカーディガン着た。」

 

 

 

それからしばらくは、近所は大騒ぎになった。張り紙が貼られ、目撃情報を集めるために警察がマンションの周りをうろうろしていた。しかし結局、誰も赤いカーディガンを着た茶髪の女性をこの辺りで見た人は現れなかった。

 

 

私は1週間部活をサボって、毎日公園に行った。そして毎日、チサさんとケンちゃんが来るのを待った。赤いカーディガンを着た彼女が現れて、なにそれ私じゃないわよと笑い飛ばして欲しかった。けれど、彼女が現れることはなかった。

 

 

その事件がきっかけで、私たちは引っ越すことになった。

 

 

荷物をトラックに積み込み、車に乗り込む前に、ちょっとだけ待っててと私はマンションにかけこんだ。

 

 

黒い大理石の廊下に、私はごろんと横たわった。ひんやりとした石の感覚が、服を通して背中から伝わってきた。大の字に腕を広げ、天井を見上げた。

 

 

 

不思議とチサさんを怖いだとか、思う気持ちはなかった。彼女の動機や、本心はわからない。私がただただ、彼女が心配だった。心優しくて臆病者の彼女は、もし鍵を開けて母親と対峙しても、ごめんなさいと逃げてしまったと思う。そしてなんとなく、もう彼女はこの近くに住んでいないようにも思った。2人でひっそりと違う街に引っ越してしまったのではないか。

 

 

もちろん、私がチサさんに家の部屋の番号を教えたこともなかったし、まさか私が住んでいる家だとも知らなかっただろう。そして心から、チサさんが狙ったのがうちでよかったと思った。もし、他の家で鍵が開いたら。中に入ってしまったら。誰かに見つかって、とんでもないことをしでかしていたら。ケンちゃんが悲しむようなことになっていたら。そう考えるだけで、胸がはりさけそうになった。

 

 

なによりも悲しかったのは、誰もチサさんを見ていなかったことだった。チサさんは、誰の目にも止まっていなかった。小さなケンちゃんを連れて、静かに、たくましく生きていたチサさん。近所づきあいなど、全くなかったのだろう。昼の職場も、夜の職場も、この近くではなかったに違いない。この街では、彼女が生きていたことを証明できる人はだれもいなかったのだ。1度だけチサさんがマンションに遊びに来たきっかけとなった、ケンちゃんの保育園の友達の母親には、どうかチサさんのことを覚えていてほしいとすら思った。

 

 

車のクラクションが鳴る音がした。はやくーなにしてんのーと遠くで母親が呼ぶ声がした。はあい、と私は答え、ゆっくりと起き上がった。

誰もチサさんのことを覚えていなくたって、私が証人になるから。チサさんはこの街で必死に生きていたよ。

 

 

街で赤いカーディガンを着た女性を見ると、ふと目をとめてしまう。今も彼女がそれを着ているはずもないのに。

チサさん、どうか元気でいてください。

私だけは、私だけは、あなたのことを忘れないからね。