おんなのはきだめ

ダメなおんな、ダメなりにも生きるんだよ。

赤いカーディガン

初めてできた年上の友達は、14歳年上の女の人だった。

 

小学生から中学生にかけて住んでいたマンションは、坂のてっぺんに立っていた。その隣には大きな緑化公園があった。池や広い芝生が広がっており、週末になると多くの家族やランニングをする人、釣りを楽しむ人が集まった。

 

その公園からはマンションの裏側から行けることができた。マンションの横には小さな林があり、そこを抜けていくと公園の脇にでるのだった。マンションに住んでいる子どもたちの間ではそこの抜け道はみんな知っている道で、みんなで遊ぶとなるとこぞってその抜け道の前に集合し、公園に駆け抜けて行くのだった。

 

小さい頃から1人が好きな子どもだった。小学生の時は近所の子どもたちと毎日のように遊んでいたが、中学は地元の中学ではなく家からかなり離れた中高一貫の私立に入学したため、近所の子どもと遊ぶことはだんだん少なくなっていた。ましてや、公園で遊ぶことなどはなくなった。

 

だが、それが心地よかった。カバンを家に置くと1人抜け道を抜け、だだっ広い芝生の公園の端にあるベンチにぼうっと座り、週末の人の賑わいとはまったく打って変わって、犬の散歩をする近所の人や、ただあてもなくぶらぶらと歩く老人を眺めながら、家の冷凍庫からくすねたアイスクリームを食べたり、本を読んだりしていた。

 

その日は珍しく先客がいた。

 

小さな男の子が地面に座り込み、なにかを一生懸命に観察していた。そしてその様子を興味がなさそうにぼんやりと眺めながら、ベンチに座りタバコを気だるそうに吸っている女性がいた。

 

ずいぶん近づいているのに、2人は私に全く気づいている様子などなかった。今日は退散するかと体の向きを変えようとした時、女性がこちらを見た。

 

「あら」

 

ふわふわとパーマのかかった肩ぐらいの茶色の髪。前髪はぱつりと眉下で切りそろえられており、細いタバコをふうと吐き出すその唇と、腕を通さずに肩に無造作にかけられたカーディガンは、きれいな真っ赤だった。

 

思わずたじろぐ私をじいと見るとその女の人は、細い体を少しずらしベンチの端に寄って言った。

「座る?ここ。」

 

できるなら立ち去りたい。でも、ここで踵を返して立ち去ったら、この人はきっと寂しい気持ちになるだろう。2秒ほど考えて、私はベンチへと向かった。

 

「失礼します。」自分でも驚くほど上ずった声が出て、思わず顔がかあっと熱くなったのがわかり、恥ずかしさを隠すように持っていた文庫本を開いた。

 

「読書?偉いね。」女性がしげしげと自分を見ている視線を思い切り感じる。えいと心を決め、ぱたんと本を閉じると、きっと彼女の方を向いた。

 

「あの、ここ、禁煙だと思いますけど。」

 

一瞬キョトンとした顔をした彼女は、ああ、と声を上げて前に屈み込むと黒のピンヒールのつま先できゅきゅっとタバコを地面に擦り付け火を消した。その動作が妙に色っぽく、私は目が離せなかった。

 

ほら見て、消したわよというように彼女はもう一度こちらを見ると、にこっと笑った。 

「外で吸うタバコって、格別に美味しいの。」

 

 

その日から、そのベンチに行くと彼女がいることが多くなった。初めはぎこちなく会釈をする日が続いたが徐々に私たちはおしゃべりをするようになった。

 

彼女の名前はチサコ。

チサさんは27歳。小さな子どもはケンタロウくん。公園の反対側のマンションに2人で住んでいること。ケンちゃんが最近虫が好きで、この公園を気に入っていること。チサさんは虫が苦手で、一緒に遊ぶことはできないので、こうして見守っていること。彼女は昼と夜に別の仕事をしていること。スーパーに行ってケンちゃんを保育園まで迎えに行って、この公園で遊んでいるのを見て、家に帰ってご飯を食べ、寝かしつけてからまた仕事に出かけること。彼女は思ったよりおしゃべりで、そんなことをたくさん聞かせてくれた。確かにいつも彼女の横にはスーパーの袋が添えられていて、時には今日の夕飯はねえ、と聞かせてくれたりもした。

 

 

それは未知の世界だった。我が家は4人家族で、中学生の私と高校生の姉を食べさせるために、母は週末に車を出しスーパーに買い物に行き、その度に両手いっぱいの食材を買ってきては重い重いと冷蔵庫に入れていた。小さなビニール袋ひとつに収まる、小さな家庭の食卓。チサさんはすごく華奢で小さな体をしていて、おそらく食も細いのだろう。ちょこんと彼女の横に収まるそのスーパーの袋が、すごく可愛らしく感じた。

 

そう、私はいつのまにかチサさんとケンちゃんに惹かれていたのだった。

 

いつしか私は、公園に本を持っていかなくなった。公園に行く頻度も増え、冷凍庫からくすねるアイスの数は3つになっていた。

虫が嫌いなチサさんの代わりに、私がケンちゃんと遊んだ。ケンちゃんは優しい子で、虫を決して殺したりしなかった。私が小さい頃は、同い年の男の子はアリを踏み潰したり、巣に水を入れて右往左往するアリたちの列を見て喜んだりしたのに。じいっとアリの列を観察したり、時々現れる大きなアリに驚いたりしていた。

 

そんなある日、何気なくチサさんが聞いた。「そういえば、家はどこなの?」私はすぐ裏のマンションだと言うと、チサさんの顔がぱあと明るくなった。

 

「あの、大理石の廊下のところ!」

 

高級マンションでもなんでもない我が家のマンションは、この地域では一番新しい建物で、外見だけは少し小洒落ていた。黒を基調にした建物で、エントランスを入ると廊下が黒の大理石基調になっていた。夏の暑い日にはそこは少し涼しく、子ども達は大理石に頬を当てて涼んでいたりした。石はひんやりと冷たく、体温の高い子ども達の火照った体をすぐに鎮めてくれた。

 

「なんで知ってるの?」思わず驚く私に、チサさんはいたずらっ子そうに答えた。

ケンタロウの保育園のお友達の子が住んでて、遊びに行ったことがあるの。帰りにケンタロウがそこで転んでね、泣くかと思ったら、床が冷たくて気持ちいいって立ち上がらなくて。しょうがないから私も一緒に寝転んだのよ。

 

え、チサさんも!?すると、秘密を打ち明けるように彼女は続けた。もう、人が来たらどうしようかって、ひやひやもんよ。頭おかしい親子がいるってびっくりされちゃうでしょ。でも幸い誰もこなくて。しばらくケンタロウと一緒に横になったらケンタロウも大人しくなってくれて。でも、なんかよかったなあ。次に引っ越すなら、大理石の廊下があるところがいい!って思うわけ。その保育園のお友達もね、もう引っ越しちゃって。ケンタロウが唯一仲よかった子なのに、残念。

 

 

私はチサさんが周りの様子を伺いながらも、どれどれと横になる様子を想像して、涙が出るまで笑い転げた。なんて可愛い人なのだろうか!はしたないからやめなさいと叱り、ケンちゃんを無理矢理にでも起こさないところが、チサさんらしかった。

 

 

今思えば、チサさんは大変な毎日を送っていたのだと思う。中学1年生だった私には、彼女の苦労は1ミリも理解できていなかった。

 

 

ケンちゃんの父親が一緒に住んでいないことの意味も、当時の私はわからなかった。27歳。幼稚園の子を抱え、昼職と夜職を掛け持つシングルマザー。それでも私と会う時の彼女はいつも優しく、明るく、かわいく、そしていつも女らしかった。大人の女性といえば、母親か学校の先生しかしらない私にとって、チサさんははじめて知り合った「オンナ」だった。チサさんはいつもかわいらしいワンピースに、ヒールを履いていた。そして、彼女が時々着ている赤いカーディガンは、チサさんの肌の白さと、茶色の髪と、赤い口紅にすごく映えて似合っていた。

 

 

私は、チサさんに憧れの感情を抱いていたのだった。

 

 

中学2年生になると、私はそれまで入っていなかった運動部に入部した。遠くの学校に通っていたこともあり、帰りが遅くなることが増えた。もちろん夕方に公園にいくことはあまりできなくなっていた。あんまりもう来れなくなるかも。そうチサさんに告げるとチサさんはいつもの優しい笑顔で言った。そんなこと、気にしなくてもいいよ。だいたいいつもいるから。たまに部活サボったら、一緒に遊ぼ。

 

 

それから1年が過ぎた頃だった。中学3年になった私は、もう公園に行くことはなくなっていた。

 

 

ある日、部活が休みの日があり久しぶりに家に早く帰ると、いつもは夜に帰ってくる父親が家にいた。母親は呆然とした顔でダイニングの椅子に座っていた。ただならぬ気配を感じ、思わず2人に駆け寄る。なにがあったの。

 

ああ、もう心配ないよ。父親は私の肩にぽんと手を置くと話し始めた。

空き巣がね、入りそうになったんだ。

 

 

話はこうだった。

 

昼過ぎ、母親がうとうととしていると、うっすらとインターホンが数回鳴るのが聞こえた。マンションのエントランスにつながっているモニターを覗き込むが、そこには何も写っていなかった。玄関でインターホンを鳴らしているとなると、お隣さんだったのかしらと玄関に向かって行くと、突然それは起こった。

 

 

ガチャガチャと、扉が外から開けられようとしている音がした。思わず扉に駆け寄り、母親は必死に鍵をおさえた。幸いにも最近もう一つ鍵を設置し、それは最新の防犯の鍵で絶対に開けられないというお墨付きのものであったが、もとから付いていた鍵はいまにも開けられてしまいそうだった。

 

渾身の力を振り絞り、母親は鍵をおさえていたという。しかし、鍵がまったく動く気配がないので、すぐに諦めていなくなったという。母親は玄関で思わずへたり込み、恐怖でしばらく動けなかったそうだ。それからすぐに警察に電話をし、父親に電話をし、しばらくは事情徴収やらなんやらで大変だったそうだ。

 

静かに父親が私に説明をするのを母親は聞いていたが、話が終わるとポツリと彼女は言った。

「見たの。ドアスコープから。相手を。」

 

すうと息を吸い込むと、彼女はゆっくりと言った。

 「女の子だったのよ。茶髪で、赤いカーディガン着た。」

 

 

 

それからしばらくは、近所は大騒ぎになった。張り紙が貼られ、目撃情報を集めるために警察がマンションの周りをうろうろしていた。しかし結局、誰も赤いカーディガンを着た茶髪の女性をこの辺りで見た人は現れなかった。

 

 

私は1週間部活をサボって、毎日公園に行った。そして毎日、チサさんとケンちゃんが来るのを待った。赤いカーディガンを着た彼女が現れて、なにそれ私じゃないわよと笑い飛ばして欲しかった。けれど、彼女が現れることはなかった。

 

 

その事件がきっかけで、私たちは引っ越すことになった。

 

 

荷物をトラックに積み込み、車に乗り込む前に、ちょっとだけ待っててと私はマンションにかけこんだ。

 

 

黒い大理石の廊下に、私はごろんと横たわった。ひんやりとした石の感覚が、服を通して背中から伝わってきた。大の字に腕を広げ、天井を見上げた。

 

 

 

不思議とチサさんを怖いだとか、思う気持ちはなかった。彼女の動機や、本心はわからない。私がただただ、彼女が心配だった。心優しくて臆病者の彼女は、もし鍵を開けて母親と対峙しても、ごめんなさいと逃げてしまったと思う。そしてなんとなく、もう彼女はこの近くに住んでいないようにも思った。2人でひっそりと違う街に引っ越してしまったのではないか。

 

 

もちろん、私がチサさんに家の部屋の番号を教えたこともなかったし、まさか私が住んでいる家だとも知らなかっただろう。そして心から、チサさんが狙ったのがうちでよかったと思った。もし、他の家で鍵が開いたら。中に入ってしまったら。誰かに見つかって、とんでもないことをしでかしていたら。ケンちゃんが悲しむようなことになっていたら。そう考えるだけで、胸がはりさけそうになった。

 

 

なによりも悲しかったのは、誰もチサさんを見ていなかったことだった。チサさんは、誰の目にも止まっていなかった。小さなケンちゃんを連れて、静かに、たくましく生きていたチサさん。近所づきあいなど、全くなかったのだろう。昼の職場も、夜の職場も、この近くではなかったに違いない。この街では、彼女が生きていたことを証明できる人はだれもいなかったのだ。1度だけチサさんがマンションに遊びに来たきっかけとなった、ケンちゃんの保育園の友達の母親には、どうかチサさんのことを覚えていてほしいとすら思った。

 

 

車のクラクションが鳴る音がした。はやくーなにしてんのーと遠くで母親が呼ぶ声がした。はあい、と私は答え、ゆっくりと起き上がった。

誰もチサさんのことを覚えていなくたって、私が証人になるから。チサさんはこの街で必死に生きていたよ。

 

 

街で赤いカーディガンを着た女性を見ると、ふと目をとめてしまう。今も彼女がそれを着ているはずもないのに。

チサさん、どうか元気でいてください。

私だけは、私だけは、あなたのことを忘れないからね。

君の磁力はどれくらい

初めて水商売に足をふみいれたのは、19歳と10ヶ月の時だった。

 

地方の高校を卒業し、東京で一人暮らしを始めた私にとって、東京の夜の街はキラキラと輝いていた。

お金に苦労していたわけではない。この夜の街の一部になってみたい。それは一種のミーハー心だった。

 

その店は、ガールズバーとキャバクラが半々の店だった。カウンターの中でお酒を作り、接客をするガールズバースタイルの部分と、卓が用意され隣に座って接客するキャバクラスタイルの両方があった。

 

「未成年ねえ。トラブルが起こると面倒だから、うちでは雇えないよ。」

 

背の高い、ぽっちゃりした普通のおじさんという風貌の店長は私の年齢を聞くと、眉を少しひそめそう言うと、ふうっと細長い煙を吐いた。

 

「でもまあ、こんな履歴書なんてご丁寧に面接に持ってきた子なんて初めてだし、真面目そうだから、いいか。」

 

履歴書の私の写真はスピード写真で撮ったものとはいえ、やけに神妙な面持ちで写っていて、ボトルが沢山並んだカウンターの上に置かれると、やたらと場違いに見えた。

 

「酒は飲まないでね。面倒だから。あと、」

 

灰皿に無造作に煙草を押し付けると彼は言った。

 

「最低でも半年はやってみな。面白いと思うよ。」

 

そうして私は無事「飲み屋のネエちゃん」になった。

 

店には20名ほどの女の子が所属しており、年齢は23~28歳ほど。彼女たちが普段何をしていて、どんな子たちだったのか、私はほとんど知らない。

 

そう、私は他の子とはほとんど仲良くならなかったのだ。

 

店の女の子の関係は殺伐としていた。2、3のグループができていることは初日で気づいた。仲が良くない女の子たちもいた。特にどこかに加わりたいとも思わず、会話は最小限にとどめ、のらりくらりと一匹狼を貫いた。

 

キャバクラがチーム営業だとすると、ガールズバーフリーランス営業だ。店長も私の意志を感じたのか、カウンターで1人で接客させることしかさせなかった。ますます私はやりやすくなり、1人で来店する人担当となり、フリーランス営業の道を全うすることができた。

 

(その経験が裏目に出たのか、のちに私は初対面の人と1対1で飲むのは非常にうまくこなせるのだが大勢の人と飲むということがいたく苦手になったのだが。)

 

 

忘れられない客がいる。

 

 

タカさんという男性だった。

新人です、と紹介されると、タカさんはじっと私の目を見つめ聞いた。

 

「なんでこんなところで働こうと思ったの?」

 

返答に困った私はとっさに答えた。

 

「なんでこんなところで飲んでるんですか?」

 

タカさんは私の目から目をそらさなかった。そしてふふふ、と笑うと店長に言った。

 

「おかしな子を入れたもんだねえ。」

 

 

それが彼との出会いだった。

 

 

タカさんは常連で、週に1回くらいのペースでやってきた。1人で来る時もあれば、仲間と来る時もしばしばあった。50代後半で不動産関係の会社を営んでいると言っていた。

 

静かにゆっくり飲む人だった。はじめはシャンパンを1杯。そしてウイスキーのロックを2杯飲むと、どんなに場が盛り上がっても必ずそこで帰るのだった。

 

「俺は酒はこんくらいでいいんだよ。これ以上飲んでも、あとは一緒だからね。」

 

 

グレーのヒゲと髪がよく似合う人だった。長髪を後ろで縛っており、格好はいつもこざっぱりとしたジャケットとパンツだった。今思うと、なかなか渋めの、いい男だった。

 

 

スツールに座るなり胸元のポケットからラッキーストライクを取り出し火をつける。彼が最初の煙を吐き出すころには、私はいつものシャンパンを出し終えている。そう、私たちはいつの間にか、仲の良い客と店員になっていた。

 

 

私より2、3歳上の娘がいるんだ。とタカさんは言った。ちょうど17歳になる頃に離婚したから、それから全然会えていないんだ。なかなか綺麗な子なんだよ、親バカだけどね。と嬉しそうに言った。なんだか、娘と飲んでるような気がするなあ、とも言った。一緒に飲めばいいじゃないですか、私も実家に帰ると父親と飲みますよ、という言葉には、できないんだよねえ。俺、ビビリだからさあ。と冗談ぽく笑った。

 

 

店長から聞くところによると、タカさんはこの街ではまあま有名で、いろんな行きつけの店を持っているようだ。

「相当飲み歩いてるよ、あの人。1日にひとりで数軒ハシゴしてるんじゃないかな。一応常連だけどうちには全然金落としてくれないくせにねえ。」

やれやれ、というように店長はこぼした。

 

 

私のその店での源氏名は「ユカ」だった。誰が決めたかは覚えていないが、ある日突然、名前を与えられ、そこで私は「ユカ」として生きる。1ヶ月も経つと「ユカちゃん」と呼ばれると「はい!」と自然と反応できるようになる。なんだかおかしかくて、なんだか心地よい世界だった。

 

 

ある日タカさんが言った。

「なあユカちゃん。寂しさって、磁力なんだよ。」

 

なにを言っているかわからず、私は「というと?」と間の抜けた返事をした。

 

「この店にいる連中を見てごらんよ。みんなどこか寂しいんだ。そんで、寂しさの磁力が同じくらいの人と出会うと、すっとくっついて打ち解けられる。でも人生そう簡単には同じ数値の人とは合わないね。それは男も女も関係ない。本当に同じ数値の人と会えたら幸せだよ。みんな気づいてないけど、その磁力に振り回されて生きてんだよなあ。」

 

満員の店内は活気があふれていた。わっと笑い声が沸き起こる卓、アットホームな空気が流れる常連の団体の卓、新規でやってきた若いサラリーマン集団は女の子たちと早く打ち解けようとしきりに話題を振っている。カウンターにくる1人の客たちはほぼ常連で、いつもの女の子とまったり飲んでいる。

 

 

はたから見ると、みんな楽しそうに飲んでいるようにしか見えなかった。

 

「S極とN極じゃなくて、数値って、哲学的ですね。」

バカみたいな返答しかできない私に、タカさんがごめんごめん、と謝る。

 

「やだね、変なこと言って。俺も歳とったな。」

 

「んじゃ、タカさんと私は同じくらいの数値ってことでいいんですか?」

すかさず私が言うと、

 

「ばか、ぜんぜん違うよ」とカラカラと笑った。

 

 

そしてグラスの氷を指でゆっくりと回しながら言ったのだった。

 

 

 

「ユカちゃん、ここに染まるなよ。」

 

 

 

 

そうこうしているうちに半年が過ぎた。

 

 

 

梅雨の季節は、客足が遠のく。

その日はやけに暇で、窓から雨の街を見下ろしていた。上から眺めるこの街は、美しさと醜さが混じっている。

 

あちこちの店のネオン。道に並ぶ飲み屋の看板と、客引きの男性たち。その間を縫うように、色とりどりの傘が行き交う。信号が青になると、どこかに向かおうとしている人々が一斉に、四方八方から足早に道に飛び出していく。

 

黒いキャンバスに、様々な絵の具が混じり合う。それは、欲望が交差していく光景に見えた。

 

私はぼんやりとその様子を眺めると窓を閉めた。固まって座っている女の子たちがおしゃべりに興じている。私はケータイを眺めるのも飽き、読みかけの本を開いた。

 

タカさんが来ればいいのに。

 

お互いに連絡先は知らない。連絡を取ろうと言われたらあまりいい気もしない。ましてや彼は私の本名すら知らず、私も彼の知っている個人情報はほんの少しだった。

 

私たちはこの空間では仲良く酒を飲む。しかし一歩扉の外に出ると、お互いのことを何も知らない赤の他人だ。きっとここで会わなければ、人生で関わることなどなかった存在だ。

 

 

タカさんはその日は姿を現さなかった。次の週も、その次の週も、彼は店に来なかった。

 

 

そして、私の最後の勤務日が訪れた。

 

最後の日に、店長と店を閉めた後に飲んだ。店長は最後まで、もっといてくれたらいいのに、と嬉しいことを言ってくれた。

 

8ヶ月。あっと言う間で、そう大して思い出もなかったです、と正直に私が言うと、店長はおいおい、と言いながらも嬉しそうだった。

 

タカさん来なくなっちゃいましたねえ。と私がぽつりというと、ああ、と店長が言った。

 

毎年この時期は来なくなるんだよ。娘さんいるって聞いた?

 

はい、なんか、私の2、3個上くらいの。

 

いや、それは死んだ歳だね。

 

 

 

 

高校を卒業した彼女は、アルバイトを転々とし、夜の道に進んだ。なかなか綺麗な子だったから、人気になったのだろう。収入をそこそこもらい、20歳にして、普通のOLの何倍もの月収を手に入れた。実家を出て一人暮らしを始めると、お金の使い方がおかしくなったようだ。

 

彼女は典型的なキャバ嬢になった。家にはブランド物があふれ、夜な夜なホストクラブに通うようになっていた。

 

 

ある日、彼女はこの世からいなくなった。多額の借金を残して。

 

 

タカさんが全てを知ったのは、葬儀が全部終わった後だったという。彼の中の娘は、17歳で止まっていた。夜の道に進んだことさえ、知らなかったのだ。

 

 

それから彼は、彼女が働いていたこの街の近くに一人で引っ越してきた。そして、彼女が働き、そして死んでいったこの街で、飲み歩いているのだという。

 

 

彼女が命を絶った時期だけ、なぜかタカさんはこの街から姿を消してしまうそうだ。

 

 

「何年か前に、べろべろに酔って店にきた時があってね。珍しいじゃない。スマートに飲む人だから。閉店間際だったけど入れたら、全然帰らなくて。しょうがないから少し飲むのに付き合ってたら、言われたんだよ。まあ、どこまで本当かなんて、だーれもわからんけどね。」

 

 

「ドラマじゃないんだから。」

私がハイボールを飲みながら言うと、ユカちゃんは相変わらずだなーと店長は言った。

 

 

「いろいろあんだよ、この街は。いろいろあんだよ、ここの人は。嘘かもしれない。脚色かもしれない。それは正直俺にはわからん。でもな、俺とかお前こそは、全部信じてやらないとダメなんだよ。俺たちは、そういう職業だから。」

 

ま、今日でお前は辞めるけど。と最後に付け加えることを、彼は忘れなかった。

 

 

 

 

外に出ると、夜中の1時を超えていた。この街は、まだまだ騒がしい。

 

 

 

タカさんはなにを思って、飲み歩いているのだろうか。

 

 

どこかに彼女の姿を探しているのか。

彼女が生きた世界を知りたいのか。

彼女が死ぬ原因を作った街で、世界で、彼は一体なにを追い求めているのか。

 

 

 

 

あれから何年も経った。

あの時キラキラして見えた街は、もう私には輝かない。

 

 

六本木の交差点に立つと私は思う。

 

 

 

タカさん、磁力が同じ人に、出会えましたか。

彼氏がいるのに、彼氏がいないと言い続けるおんなたち。

 

 

 

女友達と「ドタイプな人が現れ、彼氏がいるか問われた時に、彼氏がいることを正直に言うか」という話になった。

 

聞くところによると、1人はタイプの前ではいないと嘘をつくらしく、もう1人はうまくいかなくて自然消滅状態、と答えるらしい。

 

私は誰に対しても正直に答えてしまう。

 

はなから「彼氏います」なんて言ったら、いいなと思われていても7割型シャッター閉じられちゃうよ、うまくやりなさいよといなされたのだが、その彼氏いるいない論議でふと、思い出したことがある。

 

 

 

 

大学生の時、1年半ほどスナックでアルバイトをしていた。

 

ゆるい店で、営業活動などはしなくてよく、酒をつくってだらだら飲んでればいいだけの店であった。

 

今考えるとなんともいい店だった。

お客は8割がた常連で、お客はママとチーママと、年下の仲の良い飲み友達に会いに来ている、という感じ。

 

お触りも、色恋も一切なかった。

ママがしっかり目を光らせていたし、私たちはしっかり管理されていた。

 

連絡先の交換をしたら報告。店の前後の時間はいいがプライベートでは2人では会わない。店の前後でも、会う時は前もってママに報告すること。

 

誰もお客とどうこうしたい女の子はおらず(失礼だな)平和だった。

 

いわば、名物店長がいるバーのようなもので、店全体みんなで会話しながら飲むような店だった。お客さん同士でも仲良くなったりしていた。

 

店は連日、満席だった。店に入れないお客には、空いたら後がママで連絡するなど、大流行りだった。

 

入った当初、「彼氏いるの?」とお客さんに聞かれた私は、いつもと同じように、「います」と答えた。

 

その日、店が終わり片付けをしている時にママに言われた。

「あのね、彼氏はね、いるなんてバカ正直に答えちゃダメ。これからはいないですっていいなさい。みんな夢をみにきているんだから。」

 

 

 

女の子は10数人くらい所属しており、毎日3、4人が勤務していた。

女の子はみんな可愛かった。

年齢は20歳ひとり、私21歳、その他は25~27歳の子がほとんどであった。

私以外みんな昼間は仕事をしていた。

 

女が集まると何かしらのどろどろしたものが起こるという通説などそっちのけで、私たちは仲がよかった。誰かが誰かのことを嫌ったり、悪口を言うことは一切なかった。私たちは、いい意味で無関心だったのだ。

 

みんなだいたい彼氏がいた。終わった後の店の片付けや、店じまいの後に軽く飲みに行く時は、恋話に花が咲いた。

 

そりゃあそうだ。可愛くて、器量が良くて、気さくな子ばかりだった。

彼氏と同棲している子も、婚約している子もいた。

みんなで飲みに行く時はひとしきり話して、飲んで、食べた頃にいつも誰かのケータイが鳴って、少したつと店の常連のお客やはたまた知らない男性が現れ、会計が速やかに行われたりした。

 

 

けれども、店では私たちは全員、長年彼氏がいなくて困っていた。

 

なんでみんな彼氏いないんだよ、こんな可愛くていい子たちばかりなのに!の声には、本当おかしいですよね、誰か紹介してくださいよ、と返すのであった。

 

もうアラサーなのに彼氏3年いないなんてやべえぞ生き遅れるぞ、といじられ、もう!ひどい!とむくれる子がいた。

 

3年付き合っている彼氏がいる子だった。

 

そんな会話が繰り広げられても、誰1人顔色を変えなかったし、むしろ一緒になっていじりあっていた。

 

店で唯一の大学生だった私にはさらにルールが課されていた。

 

「大学名を言わないこと」「内定先を言わないこと」「お客とfacebookでつながらないこと」

 

私はもともと大学名も内定先も言うつもりはなかったのだが、このことをわざわざ言われ少し驚いた。

 

お客の層は、なかなかの優良企業の人が多かった。

「言わないですけど、そんなこと気にしますかね?」

「もしかしたらそのことで、引け目を感じる人が、いるかもしれないから。」

 

 

facebookでつながらない」は、大学生の日常を見せるなということだ。

そこには、どうしても男友達が登場する。BBQ、海、旅行、学祭・・・

リア充な大学生活は、そこではマイナスでしかなかった。

 

 

私はどこの大学?と聞かれると、女子大です、と言った。来年からは中小企業で事務やります。それ以上を言及されることはなかった。

 

 女の子の職業は、バラバラだった。

 

幼稚園の先生、フラワーアレンジメントの講師、声優の卵、モデルの卵、スタイリストのアシスタント、等々。

何かになりたくて、仕事を両立させている子が、ほとんどだった。

 

 

  

ここは男の楽園だ、と感じた。

だれも、なにも、彼らの自尊心を傷つけるものはなかった。

 

みんな可愛くて底抜けに明るくて、優しくて、彼氏がいなくて、ちょっぴり馬鹿で、弱かった。

 

私はこの作られた空間を、全く滑稽だとは思わなかった。

ここはママがしっかりと年月をかけて作り上げた、楽園なのだ。

 

そこに咲く花は、丁寧に手入れされ、剪定され並んでいた。

 

そこでひとしきり遊んでも、だれひとりとしてトゲに傷つけられることも、蜜で服が汚れることも、きつい香りで、思わず顔をしかめることもないのだ。

 

全ての花は来た人を柔らかく優しく迎え入れた。

 

 

ただの小さなスナックだ。

一見すると、本当に適当な店だった。そしてゆるさを売りにしていた。

しかしゆるさの裏には、しっかりとしたフィロソフィーが、築かれていたのだ。

 

 

 

 

 

 

一番古株の女の子がいた。あきちゃん(仮名)だ。

あきちゃんはママが店をオープンした時からの唯一の女の子だった。

入った時は19歳の時だったそうだ。

そして、私が働いていた当時は、26歳になっていた。

 

あきちゃんは一番の人気者だった。

顔は石原さとみを少しきつくした美人と可愛いの中間くらいで、身長は158センチぐらい。

すこしふっくらしていて、おっとりした喋り方でみんなを癒していた。

昼間は幼稚園の先生をしていた。

 

みんなあきちゃんが大好きだった。毎日あきちゃんに会いに来る人もいた。

あきちゃんの誕生月は、お祭り騒ぎだった。

 

毎日ドンペリだの、ブーブクリコだのがポンポン空き、花やケーキが届き、さながら高級キャバクラのようだった。

店が終わってからもお客は帰らず、あきちゃんと別の店で飲み直したがった。

 

 

あきちゃんは控えめだった。面白いことを言って店を盛り上げるわけでもないが、ゆっくり、でも飽きさせずにいつも楽しそうにおしゃべりをしていた。

 

私も、あきちゃんが大好きだった。店に入った時に、しばらくの間は私について色々教えてくれたのはあきちゃんだった。いわゆる会社でのOJTだ。

 

先輩ヅラすることは決してなく、それでいてなれなれしくもなく、心地いい関係だった。つまりはあきちゃんは人との距離のとりかたがうまかったのだ。

 

 

あきちゃんが女の子達と個人的に飲みに行くことは1回もなかった。

 

 

 

 

 

事件は突然起こった。

 

あきちゃんの田舎のお母さんが倒れ、看病するために東北の田舎に帰らなければならなくなったこと、1週間後にあきちゃんは辞めることがママから伝えられた。

 

私たちはみな心配し、あきちゃんが去ることを大いに悲しんだ。

 

今まで足が遠のいていたお客も、過去に働いていた女の子にもその連絡は行き、みなが店に詰めかけた。

 

 みんながあきちゃんの思い出話をした。みんなでたくさん写真を撮った。

誰かがチェキを持ってきて、あきちゃんとのツーショットを順番に取り、メッセージを書き込んだ。酔ってうまく書けない客の代筆を、叱りとばしながらママがした。

 

そんなママも、その日はすごく酔っていた。19歳の時のあきちゃんはね、と何度も同じ話をした。たくさんのチェキを、ママは大事そうにカウンターの中の壁に貼った。

あきちゃんは、最後にちょっぴり泣いた。

その1週間、店の売り上げは過去最高記録を達成した。

そうしてあきちゃんはいなくなった。

 

 

 

 

 

その半年後、ママからあきちゃんが地元で結婚したことを伝えられた。

母親の看病をしながら地元で働いていた時に出会った人と、電撃結婚だそうだ。

 

 

もしかして、と私は思った。いや、女の子みんなが思った。

 

 

その場にいた古くからのお客が言った。 

「さすがはあきちゃんだよ。あんな可愛い子、田舎では目立つだろうしね。地元でも評判だろうに。」

 

誰も何も答えなかった。

 

 

 

その後私は無事大学を卒業し、店を去った。

店の女の子とそれから会うことはなかった。

 

 

しかし2年が過ぎた頃、ひょんなことで店を思い出し、かつての女の子をfacebookで検索した。そのつながりで、あきちゃんのアカウントを見つけた。

 

 

 

あきちゃんは横浜に住んでいた。

そして、2児のママだった。

 

 

 

シナリオはこうだろう。

妊娠が発覚し、そのタイミングで結婚をすることとなり、店を辞めることにした。

一番、綺麗な言い訳を考えたんだと思う。

そして誰にも、本当のことを告げず彼女は去った。

 

 

東北のご実家に戻っていたかは不明だし、そもそも実家が東北かどうかも怪しい。

今まで誰一人として、あきちゃんから彼氏の話を聞いた女の子はいなかった。

 

 

 

 

ああ、完璧だと思った。

裏切られた気分にはならなかった。

あきちゃんは女神の役を完成させたのだと思った。

あきちゃんは、あきちゃんなりの完璧な女性像を、お客とそして私たちに植え付けたことで、完成された。

 

「昼は幼稚園の先生をし、夜は皆から愛されかわいがられ、母親の看病に地元に戻り、献身的に生きる彼女はそこで出会った素敵な男性に見初められ、結ばれる。」

  

 

最後まで自分の女神の役割をきっちりと演じきって彼女は舞台から去った。

そして、彼女と仲良くしていたお客の心の中では、ずっと女神はその美しい姿を変えず、生き続けるのだ。

 

 

今となっては、幼稚園の先生をしていたことすら、本当かわからない。

だれも、彼女の本当の姿を知らなかった。

だれも、彼女の本音を、苦しみを、悩みさえも、知らなかった。

7年もあの店にいたのに!

彼女はあそこで、違う自分を生きていた。

自分の「本当の」生活を守るため?「本当の」仕事や恋人や、友人のため?

 もう、確かめる術もない。

 

 

 

 

 

去年、惜しまれながら店は閉店した。

ママからは丁寧にラインが来た。私は、辞めてから一度も顔を出さなかったことを詫びた。

 

 

私の中では、あの楽園も、女神も、ずっと変わらずにあそこにある。

 

 

 

これから先も、私は誰の前でも、彼氏の有無を馬鹿正直に答え続けるだろう。

その度に、あの楽園を思い出して、きゅっと胸がしめつけられるのだ。